〜 悪魔神官は遊んで生きたい 〜

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葛飾北斎論 オタクが論文を書いたなら

オタクなので長文が書きたくなりまして、今回は論文パートです。前回書いた通り、私は大学のゼミで「葛飾北斎と応為」について調べる機会をいただいてまして、冗談は無しで真面目にかの父娘について研究しております。例のお栄でバチコリ抜きまくっているのは紛れもない事実ですが、これに関しては真剣にやっております。きっしょい話題では無いのです。

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●例の論文

なんかWordをそのまま張り付けたりできないみたいなんですよね、はてなブログ。できればWord形式ので読んでほしかったんですよ、注釈とかもありますのでね。html形式で保存してみたりしたのですがなんだかうまくいかず、しゃーないので文章をそのままここにコピーしてぶん投げさせていただきやす、ご容赦。

累計13000文字前後のれっきとした長文なので、お時間ある時に読んでみてください。よろしくお願いします。

 

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北斎が過去と今に遺したもの」

自分は「葛飾北斎」に対して大きな関心がありながらも、恥ずかしい事に実際彼に対して持ち合わせていた知識はごく僅かなものだった。そこで「北斎以前に当時の作品区分や用語」「北斎の足跡」「後妻三女応為の足跡」を学ぶことに、この大学在籍期間の幾らかを費やすことを決めた。前回「葛飾北斎の足跡」と称して彼の生涯を振り返っていたので、今回は多少飛躍して、彼に関係していた事物について幾らか検索を加えてみようと思う。

 

Ep1 葛飾北斎の足跡

Ep2 版画浮世絵について

Ep3 葛飾応為の足跡

Ep4 現代における北斎作品の利用について

 

Ep1 葛飾北斎の足跡

葛飾北斎の足跡を学ぶ為に吉川弘文館出版永田生慈著『葛飾北斎』、東京美術出版で先と同じ永田生慈監修の『もっと知りたい葛飾北斎』の2冊を読んだ。前者は「世間一般に溢れた『風景版画家北斎』という一面的な印象を見直して、多岐にわたり変化を続けた90年の生涯を絵師以前含め7部に分けて紐解き理解する」ことを目指す物、後者は典型的な作品紹介冊子。同一学者の監修であるのが功を奏し、作品紹介区分が前者のものと一致していた為、前者の解説過程で代表として取り上げられた作品を、後者で確認するという流れを踏むことができ、必要な情報の取り込みが円滑に行えた。永田は北斎の時代区分を「絵師以前」「習作、春朗期」「宗理様式期」「読本挿絵と肉筆画の時代」「絵手本の時代」「錦絵の時代」「最晩年肉筆画の時代」と分けていたので、それに従い順を追って簡潔にまとめることにした。[1]そも現代における北斎研究というのは飯島虚心(1841~1901)が北斎と面識のあった人物達に実際に話を聞き、それらを基に書き上げた『葛飾北斎伝』の記述の是非を問う形が主に取られている。この制作法を取った一冊が軸に研究が進められているのは実に納得できる。

 

「絵師以前」[2](1760~1778)は殆ど足跡が残っていないのが事実。考えてみればそうだ。現代の、それこそ生きている人物の幼少期ならば話を聞くなどして情報を得ることが出来たとしても、幼少期から何かに属していた、或いは仕事をしていたなどの記録が無ければ解明に至るのは難しいのは間違いないかと。虚心の記述によると宝暦10年(1760)9月23日出生で、弘化元年(1844)の描き初め「大黒天図」の署名に自記している。出生地は下総国本所割下水とのことで、現在の東京都墨田区である。すみだ北斎美術館の存在もあり、出生については以前から存じ上げていた。家系は川村氏の子として生まれて、幕府御用鏡師で叔父にあたる中島伊勢の養子になり、後に川村氏の下に戻った。出生以降の記述も少なく、後年の『富嶽百景』『画本彩色通』の中で6歳から作画に興味を示していて、16~19歳には木版印刷の文字彫を生業にしていたことのみ記述されていた。

この時代については虚心の記述を覆す資料が発見されていない為、これらの説が定着している。ところで6歳での作画への興味というのは、浮世絵界の変遷と照らし合わせて考えると興味深い関係がある。近世初頭1650年代から、浮世絵界では「一枚絵」と呼ばれる版画が出版され始めていた。挿絵などとは違う文字通りの一枚の紙に擦られた絵を指す。最初は墨摺絵という白黒のものであったが、丹絵、紅絵、漆絵、紅摺絵と徐々に色彩を増やしていき、明和2年(1765)には「東錦絵」と呼ばれる多色摺の作品が鈴木春信(1725?~70)を中心に発展していった(ep2で補足)。この東錦絵の完成年と北斎が作画への関心を持ち始めた年が同じ1765年であるという物だそうだ。[3]木版印刷の生業も活性化していった出版業界の時流に乗ったものと考えることには大変感心した。

 

「習作、春朗期」[4](1779~1794)は北斎が安永7年で木版印刷の仕事を辞めた後の約15年を指す。一年間の修行の後に当時役者似顔絵で一世を風靡した勝川春章(1726~92)に入門した。翌年8月には「勝川春朗」の画名で3作の役者絵を発表した。師の春章が北斎に期待していたのは春朗という名が春章の「春」、別名の旭朗井の「朗」という双方己の名から与えられたものであることから推測でき、北斎の他に二名しかそのような扱いはされていない点もその推察を補強している。初期の5年余り(1779~1784)は師の模倣の域を超えることはなく、人物画などにぎこちなさが見えるようだが、黄表紙(洒落や風刺を交えた大人の読み物)、洒落本(主に遊び話を扱う読み物)、咄本(笑い話や小話をまとめた本)等意欲的な作域拡大を試みていることが分かる。その年の後半には画風の安定、美人画への挑戦、中には後年の挿絵本に共通する構図なども見られる。後半の5年間が春朗期で最も充実した年代と呼ばれる。作数の増加が顕著に見られ、春朗の作画と判別できるものも格段に増加しているようだ。子供絵、武者絵、名所絵、おもちゃ絵、宗教絵、相撲絵、風俗画、絵暦など当時存在した殆どのジャンルに手を出しては挑戦していたのが見られる。勝川派の中堅絵師としての知名度を築き上げたのはこの時代であると想像できるが、この時期の末に師の春章が他界してしまう。

この時代の中盤で幾度か、彼は貰い名の春朗を改め「群馬亭」の画名を使用、また春章没後の翌年の作品からは「叢春朗」を名乗るようになる。作風が勝川様式から飛んで新たな作風を見せているように見られる。この時実は勝川派最古参の兄弟子との不仲、或いは隠れて狩野派の画法を学んだ事を理由に勝川派を破門されていたというように言われている。勝川号を名乗らなくなったのもそのためであると見られ、作品の幾つかにも破門され云々の文言が見られるので現状は破門説が主流である。対して永田は春章没前から破門されていて且つ一時勝川派に復帰した説を挙げていて、こちらも考えうる説ではある。[5]ともあれこの時期は勝川派在中に手掛けた錦絵、黄表紙等は数を減らし、代わりに摺物、狂歌絵本類の今までにない分野に進出し、画風変化すら求めているようになっていった。

 

「宗理様式期」[6](1794~1804)は先の破門後の年の摺物「砧打図」の発表の翌年から約10年間を指し示す。「宗理」は俵屋を称する琳派の頭領が用いた画名であり、宗理を称した寛政7年の作品が出た頃には確実に勝川派を脱していたと言われる。浮世絵界隈での重鎮であった勝川派からの破門を受けたからか、この時期は浮世絵界から距離を置いていました。従って作品も摺物や狂歌絵本(五七五七七からなる短歌集に絵師が挿絵を入れた物)、肉筆画(版画に対して絵師が直接筆で描き上げた作品)などを多数寄稿、発表して高い評価を得ている。「北斎辰政」「画狂人北斎」などこの時期からいよいよ「北斎」の名が現れてくる。宗理派は北斎の代から大きな変容を遂げている。従来の光琳風の肉筆画と俳書への挿絵寄せなどが殆ど無くなり、代わりに肉筆画は美人画や風俗画が大半を占め、俳書への寄稿はすっかりなくなってしまったのである。上にあげた狂歌との繋がりが新たに開始されていった。延いては宗理様式を名乗りながらも以前までの様式を継承するのではなく、あくまで己の画風を貫いていたのであった。その点もあり、宗理派の紹介の内で北斎以降のものを宗理派として紹介しない文献も存在する。北斎が宗理を称した時期は3年と短い時期であるが、この間多数の摺物と狂歌挿絵を手掛けていた。対して錦絵は一点も見つからず、黄表紙も数点、いずれも無款(署名が無い作品)であるそうだ。無記名でも北斎のだと判断付く辺りに驚きなのですが…。十数点確認されている肉筆画は年代順など明らかではないが、烙印からこの時期の作品であるというものは見極められている。中でも「夜鷹図」は宗理時代だけでなく北斎美人画の代表的一作としても数えうるものであり、この3年間で目を見張る画力向上が認められている。

3年弱経過した寛政10年(1798)に宗理号を門人に譲渡して独立をして、宗理号返上の後に「北斎辰政」を名乗りあげた。辰政の名は彼が当時尊信していた妙見信仰の由来であり、のちの戴斗の名もこれが由来と言われている。独立後は狂歌絵本挿絵の数を減らし、代わりに読本挿絵の数を増やしていった。同12年(1800)北斎41歳にして初めて挿絵、戯作ともに本人が行った『竈将軍勘略之巻』が登場、享和2年(1802)には生涯単位でも傑作と呼べる狂歌絵本のいくつかも現れた。宗理期には描かなかった錦絵も再び描き始めたり、肉筆画のさらなる増加など、女性風俗を中心に数多くの作品を発表した時期であった。この辺りからは北斎の人物像や生活ぶりに注目している。彼に限らず浮世絵師全般に言える事に、職人としての彼らは記録されていても、それ以外については殆ど記録が残っていることが無いのが事実である。人物像については代表としてオランダのカピタンとの逸話と三囲稲荷開帳での大きな書初めの出来事の二つを挙げていたが、実生活についてはこの辺りではまだ多くは分からなかった。

 

「読本挿絵と肉筆画の時代」[7](1804~18)では文化年間で流行しはじめていた読本の挿絵への注力、また同じ時期に作数を増やした肉筆画の質と量の上昇が起きた時代の頃を指す。それ対して独立後に数を増やした絵暦、摺物、狂歌絵本はこの時期から数を減らしていく。1803年、北斎は種問わず作数を減少させていて、文化元年の正月に多くの作品が出版されている。作画が減ったのは翌年の準備であったと考えられている。その内容もまだ狂歌に関する作品が中心であり、まだ読本挿絵の仕事は少なかったが、後に「九々蜃北斎」の名を用いて様々な作家への挿絵の数を増やし始めていった。この時期の摺物に自分は注目したいと思う。他にも『東海道』に関した作品も数多く残している。歌川広重の『東海道五十三次』が有名だが、北斎は流行りに反した景観描写を寄稿している。『江ノ島図』の中には後年の代表作『神奈川沖浪裏』に通ずる構想が見られる為、読本挿絵と肉筆画の時代とはいえこの時期の摺物作品も見逃すことができない箇所であると自分は考えた。この時期は曲亭馬琴(1767~1848)との繋がりが非常に深く、両者の代表作にもなる『椿説弓張月』他計7作の読本に挿絵を寄稿している。私生活でも北斎と馬琴の交流は多くあったようで、文化8年末の絶縁までは親しくしていたとされている。肉筆画は「簡潔な表現」が多く見られ、淡彩ながらも時に力強く、時に情緒的に描いているのを確認できる。当時の肉筆画の中で『潮干狩図』は和漢洋の技法混成が見られる作品であり、同時代の他の作家と比べても技量で群を抜いている事を筆者は評価した。遠近の概念を絵で表現することの難しさは自分も存じ上げているので、潮干狩図は今見ても傑作だと頷くに容易い。平生では120畳大の大達磨を描く催しを成功、最初で最後の新居を手に入れるなど彩のある記録が幾らか存在している。馬琴との仕事柄の関係は殆ど断たれたが馬琴自身は北斎の技量を認めている様子も後の記述で判明している。

 

「絵手本の時代」[8](1812~1829)は文化9年から文政12年頃。先ず絵手本とは当時師から弟子に描き与えられる所謂教科書のようなものであり、普通は肉筆で描かれたものであった。ある時不特定多数の習画を目標とした版本が中国明清から流入して大きな刺激を与えることになった。その影響で国内でも絵手本の出版が頻繁に行われるようになり、鍬形蕙斎を中心に絵手本出版は大きく発展した。文化11年から北斎も本格的な絵手本『北斎漫画』の版行を行った。これについては「門人の増加に伴う毎度の肉筆指導の不便さの解決」「全国の私淑者への葛飾派の流布」「北斎挿絵の図案集」等の理由を多くの研究者は挙げているが、どれも削ぐ必要のない充分に納得のいく理由であるだろう。この北斎漫画は彼の作品の中で海外にも影響があった作品のひとつである。北斎漫画の一冊が海外に流れ、それに感銘を受けた持ち主が公表して当時の印象派画家達に空前の浮世絵ブームをもたらしたり、単に高い芸術性に感銘を受けたものもたくさんあると思う。自分も数頁だけ見たことがあるが、確かに多種多様な構図が目を引く興味深い作品であった。当初一篇限りの刊行だったが、あまりの好評ぶりに最終的には10篇以上の数に至っている。

生活についてはこの頃から記述が増えていて、関西旅行の他に『葛飾北斎尾張名古屋の生活』などでかなり細かく記載されていた。これは気になるので早いうちに読んでみたいものだ。家族間の関係の事も多くなり、前妻長女の離縁、孫の悪事の始末、中風を患うなど、年相応及び家庭間問題が散見できて、そして初めて「応為」の名前も登場している。[9]本誌は北斎中心の解説である為大きく触れることはなかったが、彼女も「評を行う程の技量をもっており」と書いている。自分は彼女について北斎と同等或いはそれ以上の興味があるので、後に検討を行いたいと思う(ep3で補足)。永田はここで鍬形蕙斎という同業者が行ったという北斎批判について語った。界隈では一般的に蕙斎が北斎を「真似事を何でも己が始めた」との発言をしたというように罷り通っているが、「浮世絵師は互いに刺激し受容し合いながら切磋琢磨する世界であり、同じ浮世絵師の鍬形蕙斎がそれを知らないはずがない」と結論付けて一蹴していた。

 

「錦絵の時代」[10](1829or30~1834)は天保元年或いはその前年文政13年から4~5年の間を指す。以前まで十数年単位で刻んでいたが今回はかなり短い区分である。しかし『富嶽三十六景』をはじめとした「世間一般の風景版画家」のイメージを形作った錦絵の数々がこの時代に制作されている。『富嶽三十六景』『諸国滝廻り』などの風景画、『牡丹に蝶』『桜花に鷹図』などの花鳥画がこの年代の北斎を代表するものとして挙げられている。風景画に関しては同業者の歌川広重の『東海道五十三次』と対比して優劣をつける所作が取られているようであるが、一方が純然な名所画であるのに対し、一方は名所ではなく景観描写であるとし、永田は二人がそもそも同じ土俵に居ないという点を挙げ、比較すること自体を否定している。北斎はこの時期から「特定の対象を一つの視点で見る」ことをしていなかった。富士山の絵だけでも6点、どれも異なる富士山を季節、気象、視点の違いによって描き分けている。題材を様々な角度から描く発想をこの時代で既に持ち合わせていたのだ。先に挙げた他にも『凱風快晴』『山下白雨』など、見れば嗚呼とうなりそうな見覚えのある物、『鯉魚図』『水辺の二羽の鴨』などの団扇絵(観賞用に使用されなかった物)を中心に総じて主に錦絵が盛んな時代であったと言える。この頃孫の放蕩の始末に追われる様子、金銭的困窮をうかがわせる書類が唯一見つかっている。華やかな絵画界での活躍に反して、50代以降は私生活で多く悩みを抱えていたようだ。

 

「最晩年肉筆画の時代」[11](1834~1849)は天保5年から没年嘉永2年を指す。当初に『富嶽百景』を出版、その巻末の自跋には絵師以前の際に挙げた6歳から写生をしていた事、73歳でようやく動植物を描けるようになった事、100歳まで生きれば神妙の域に達することが出来る事など、彼の絵に対する意識の一端が見て取れる。正直言って73でようやく動植物が描けるようになったというのは謙遜がすぎるとは思うが、おそらく見ている次元が既に違っていたのだろう。応為の逸話の中でも「80になっても猫一匹が描けないと涙を流している」という記述がある事から、少なくとも冗談ではないことが分かるのですが、いやはや勘弁して欲しいものだ。巷に広まる「浮世絵師」のイメージとは裏腹に、『富嶽百景』の制作後から北斎は錦絵の仕事をせず、木版画界とは絵本、絵手本のみの関係になり浮世絵の世界から遠のいている。実際には複数点の刊行予定があり、まだまだ描くという意識はあったようだが大体が未刊で終わっている。彼の肉筆画の時代は80以降が最盛ではあるが、79歳までの5年間でも『肉筆画帖』の中に10点の作品が確認できる。これの分類が絵手本になっているのだが、自分には一点物の作品にも出来ると思うほどの一品だと感じた。以降の北斎の作品は本格的に肉筆画中心の制作になっている。動植物、魚介、草花、故事成語、宗教などの題材が中心、本来浮世絵師が手掛けるはずの時様風俗の作品は殆ど姿を消している。いずれにしろこの時期にまでなると、墨の濃淡の使い分け、繊細さ重厚さなどどれをとっても前年代と明らかな違いを見せているのを、『雪中張飛図』『須佐之男命厄神退治之図』『弘法大師修法図』などの大作を挙げて説明できる。自分が気になったのは『画本彩色通』と呼ばれる北斎が最後に出した絵手本の事である。今まで修得したあらゆる技術を二編に渡って解説を試みた作品。二編で中断されてしまったこれの続きがないのに残念であるが、是非とも一読してみたいものだ。没年90歳の時も『雨中の虎図』『富士越竜図』などの着彩作品が何点も確認されている。私生活においては江戸から離れての潜居生活、齢80で初めて火災にあう、そして晩年の北斎の様子を記した書簡もある。87でも眼鏡をかけず背も曲がっていないという健康体の様子を示す物だ。彼は最期90歳にて病床に伏してという事だが倒れた時期はわかっておらず、老衰であることのみ伝えられている。死に際にも自らが絵師として完成しなかったことを嘆いていたというのだから感服である。

 

Ep2 版画浮世絵について

   このように生涯数数多の絵仕事に携わり、多くの作品を世に遺した彼だが、彼の名を当時に、そして後世に轟かせた「浮世絵」についても検索を行いたいと思う。浮世絵は広く「版画」と「肉筆画」の2つに分けられる。絵師以前の際に、摺り絵関連の変遷について少し触れていた。そこで良い機会なので今回は現代の絵画作品との制作過程に大きく違いのある、当時の木版画作品の完成までの工程をここに記しておきたい。本項を記述するにあたっては、NHKプロモーション出版『木版画の技と美―浮世絵今昔―』展寄贈誌内の岩崎均史寄稿の発言を中心に述べていこうと思う。

   浮世絵版画全盛期の江戸時代、それらは絵画というより一種の工芸品のような感覚で、人々に身近な物として親しまれていた。消費者が要求していたのも「絵師の絵画技術」だけではなく「印刷技巧を楽しむ」といった、現代ではあまり通用していないであろう楽しみ方もあったことも注目だ。これは現代で言うと「小さい子が飛び出す絵本」を欲しがる感覚に似通っているのかなと感じた。なぜ「印刷技巧を楽しむ」という事が起きたのか、その理由は「浮世絵版画完成に至るまでには絵師、彫師、摺師、版元、購買層の5者が関わっている」からである。小学校或いは中学校の頃、図工か美術の時間に版画を実際にやったことがある人も少なくないと思う。自分もその一人なのだが、その際には絵を描いて木を彫って紙に転写して完成させるまでを自分一人でやっていたのではないだろうか。それはあくまで図工美術の授業でのケースであり、江戸当時の浮世絵版画は先に述べた手前4者がそれぞれ描く人、彫る人、摺る人、出版して完成させる人とそれぞれの工程に従事して仕事を進めるのである。「絵師の絵画技術を楽しむ」人物は絵師を、「印刷技巧を楽しむ」人物は彫師、摺師をそれぞれ注目しているのではないか。そして言わずもがな北斎は絵師、彼の絵の技術の高さは間違いないが、肉筆を除く彼の作品は無論「一人では成しえなかった大作」なのである。これを置き去りにして北斎を、否浮世絵師の彼是を語るのは軽率ではないか自分は思った。それでは見てみよう。浮世絵版画完成までおおまかに以下の工程を踏む。

1 版元が購買層の要求を考え、依頼する絵師と絵の内容を決める

2 絵師が受けた発注の内容を基に版下絵を作成する

3 彫師は版木を入手して絵師の指示に従いながら版木を彫り、主版と色板を作る

4 摺師がその版木で見本摺りを作成、絵師と版元が校正し完成した物を納品する

時代や状況によってはこの通りに行かない物もあるが、基本的にはこの流れで進んでいくのが一般的となる。それぞれをもう少し深く彫り下げてみよう。[12]

1 端的に換言すれば仕事の依頼だ。無論商売である為儲ける事を中心に据えながら、検閲や制限などを考慮しつつ原案を練っていたようである。「版元から絵師へ」という基本が反転することもあった。絵師から版元にこういう絵が描きたいという依頼をするのだが、これは絵師の実績が無ければ版元が断るケースもある。ただし商売故に絵師が制作にかかる費用の負担をすれば、制作を良しとすることもあった様子。現代インターネットやSNSを見ると、この「依頼」の工程を業者や会社でするのではなく、一般消費者から絵師へ行く様子が見られる。FANBOXやskebなどを代表例として挙げておく。絵師と消費者の距離感がソーシャルメディアを通じて密接になったのだなあとしみじみと感じた。

2 版下絵とはつまるところ原画。これは次の工程で版木と一緒に削られるので、「浮世絵が残っている作品の版画はこの世に残らない」ことが確定する。もし現代に残っている版下絵があるなら、それはボツになったもの、繰り返しの校正で紙がすり減った為に描き直したか、あるいはラフスケッチであると考えてよい。基本的に費用削減で色板や技巧の制限を言い渡されることがあり、絵師の腕の見せ所である。

3 絵師の指示に従いながら上の絵を用いて版木を彫るのだが、彫師は自ら版木を仕入れている。この版木の材木に要求されるのは「耐水性」「綿密な木目」「堅牢」「不足無い大きさ」、古来より山桜の木(可能なら潮風を浴びている沿岸の物)が適当と見なされていた。彫り上げられた版木はある種資産のような扱いを受けていて、当時から転売が起きていたようだ。最初に最も重要な輪郭線部分を彫る。主版、地墨板と呼ばれるこれで一度絵を摺って絵師が校正、次に色充てが必要な箇所を指示して再び彫師が彫る。色板と呼ばれるこれを数枚彫って再び校正。そしてようやっと次の工程に移ることができる。

4 彫られた主版と色板を使い、最後に摺師が摺の作業を行う。指示の通りに摺ったものを見本摺りと呼び、絵師と版元がこれを再び吟味し校正、OKが出たら初版の必要枚数が摺り上げられて版元に納品され、いよいよ絵草子屋の店頭を賑わす作品の仲間入りをするのだ。「見当違い」という慣用句があるが、実は「版画を摺る位置にズレが生じてダメにした」時に使っていたという説がある。摺り位置合わせの指示の事を見当と呼んでいた。[13]

 

1枚の浮世絵版画の完成までに至る工程を書きだしたのだがどうだろう、ご覧の通りである。全て理解するまでは行かずとも、少なくとも一朝一夕で出来上がるようなものではないことは理解できたであろう。あの工程を考慮すると1作2~3週間で出来れば上出来なのではないかと思う。北斎程の技量があれば版下絵の作成速度を上げるのも勿論可能だとは思うが、いつでも調子良く構図が浮かぶなんて流石にありえないと思うので生涯で描き上げた作数約34000点というのはそれはもう益々わけがわからんとなるのだ。時を経て版画作品というのは日本絵画の歴史から身を引いていくのは今更否定しないものの、江戸時代の日本美術を支える役割は充分に担えていたと言えるだろう。

 

Ep3 後妻三女 葛飾応為の足跡

   絵手本の時代後半で話をした三女「葛飾応為」について、辛抱たまらないので記述させていただきたい。そういって私は意気揚々と調査し蔵書確認をしたのだが、父の北斎ですら曖昧な記述の多かったので薄々感づいてはいたのだが、彼女は益々情報が足らず、頭を抱えた。ですがその「わからない彼女のこと」を知りたかったからこそ彼らについて調べ始めたこの論文、自分なりのアプローチで彼女の人物像を迫っていきたいと思う。

   数少ない情報を整理しておこう。生没年は不明、初作は文化7年(1808)頃と推測されている。絵師の南沢等明の元に嫁いだが数年で離縁、先の最晩年肉筆画の時代には北斎の元に居た。北斎の制作援助をしつつ、彼女もまた美人画を代表に数々の作品を生み出した。彼女の描いた作品についてはよく『吉原格子先之図』が真っ先に挙げられる。光と影のコントラストの強さはどちらかというと西洋画と似るところがある。縦横約26と40cmのそれに細部まで描き込まれた女性の表情は秀逸なものであり、北斎美人画では応為には敵わんと言わしめた程。『月下砧打美人図』『三曲合奏図』など、挙げてみると他所と被りがちになるのは否めないが、これは現存する作品の少なさも一因と考えられる。北斎号の作品の中には、彼女の筆跡に酷似した作品が何点も確認されている為、代筆などは幾度行われていたのだろう。北斎没時(1849)に葬儀手続きの書簡を書いたのは応為本人であるのは間違いないが、それ以降の動向の多くが不明、仏道に帰依したなどいくつかの説があるが1856年に没したと考えられている。

   あまりにもの簡潔さに流石の私もたまげてしまった。これを補う手段として私は「現代作品における応為の扱い」を調べることにした。北斎研究を行う気の狂った研究家の連中は彼女を蔑ろにしていなかったのが幸い、故にこの方法に辿り着けた。今回は先ず『百日紅』と『Fate/GrandOrder』の二作品から応為成分と抽出してみようと思う。

 

   映画『百日紅』は、江戸風俗研究家の杉浦日向子の代表漫画作品を原恵一監督のもとで映画化した物。本来なら漫画から始めるべきとは思いましたが、定額動画配信サービスにあるというとっつきやすさから私は映画を先に視聴させていただいた。作中では度々応為の事を「お栄」と呼ぶ描写があるが、これは元名が「栄」であったという実録から来たものと考えられ、先程まで散々使った応為は所謂北斎と同じ「画名」であると言われている。一方お栄は北斎の事を幼名時太郎から改めた成名の「鉄蔵」と呼んでいる。映画は「あともう一筆で描き終える龍図に煙管の火種を落として駄目にする」シーンに始まり、写実的に描かないことを嫌う様子、男遊びが苦手な様子など、史実にある出来事を描いた描写がちりばめられている。先に挙げた南沢等明との離縁の件から考えていた「色沙汰に無頓着」という所感だけ、両国橋で同じ絵師の岩窪初五郎と対面した時の彼女の紅潮を見るに異なっていた。ただまあこの後色々あって完全に冷め切っていくので、作者は無頓着というより奥手と捉えたのだろう。「史実と持ち前の江戸風俗研究の知識を遺憾なく発揮し、お栄の目線から北斎や彼女だけでなく、江戸城下町の世界観を綿密に描き切った作品」と言えるだろう。

   DERiGHTWORKSの運営するスマートフォン向けアプリ『Fate/GrandOrder』においても、2018年元旦にフォーリナーのサーヴァントとして北斎及び応為が登場している。同時に公開された閑話を彼らの足跡を辿った上で読むことで、当初は何となく読んでいたそれに存外史実的な内容がきちんと組み込まれていることが分かった。ところでこの作品は過去を生きた偉人や伝説上の人物を英霊として扱い、彼らの力を借りながら歴史改変の修復をしたり地球の脅威を排除していくといった内容であるが、多く語れば本筋からどんどんそれてしまうので今回は割愛する。先のお栄は鉄蔵と呼んでいたが、こちらのお栄は北斎を「とと様」と呼ぶ。少々古いがそのまま父親を敬う呼び方のひとつであり、今でも使えないことも無い呼び方だ。閑話の中での登場時には120畳敷きの布袋尊書初めをしており、傍では版元の男が絵双六や宝船の絵などを売っていた。これは読本挿絵と肉筆画の時代の出来事のオマージュだろう。他に要約して取り上げてみると、金銭に無頓着、家移り癖、妙見信仰、版画の制作工程、死に際のアレ等。バトルエフェクトの中にも先に挙げた『凱風快晴』『富嶽三十六景』、他に岩松院天井の『八方睨み鳳凰図』が戦闘中に発現したりなどする。こう見るとベースがベースなだけあり、どちらかと言えば北斎の史実を中心に描かれており、「後妻三女応為の足跡」よりは「葛飾北斎の足跡」の段階における考証に向いた作品だった。本作品の北斎研究における存在意義を挙げるならば、FGOは今年8月に6周年を迎え且つ今年2月下旬には2300万DLを突破しており、幅広い層へ彼らの存在を至らしめる事になったと考えられる。そのことから「世間の北斎及び応為への関心の導入」としての役割はあったのではないかと思いました。

一筋縄ではいかないが、今の二作品だけでも捉え方に違いが見られる。長編小説の『眩』、今年5月に公開された映画の『Hokusai』など考証の余地はまだまだあるので是非ともこれらにも手を付けていき、彼女の人物像を描きだしたいと思う。

 

Ep4 現代における北斎作品の利用について

   先日菓子を求めて近場のスーパーに寄った際に興味深い物を見つけた。とある堅揚げのポテトチップスのパッケージに例の波と赤い富士が描かれていたのだ。なんとも卑怯な手段を使うものだと心中思いながらも、私はそれを買い物カゴの中に放り込んでいた。このような経験はないだろうか?無いにしても「何かの商品に北斎の絵が用いられている」様子を見かけたことならもしかしたらあるかもしれない。食品パッケージの他にも衣類やその他デザインなどに浮世絵がそのまま用いられることが度々ある。ここで気になったことがひとつ、「これらのものをことに何か許可承諾のやり取りなどは発生するのだろうか」と。早い話「著作権」の事である。金銭や名声獲得目的ではないので心配はないのだが、こういった論文やレポートなどの作成に際しても一度は考えてしまった著作権。「浮世絵に対して著作権はどのように機能しているのだろうか」と私は考え、文科省の記述を中心に調査を展開していった。

著作権とは「思想、感情を創作物で表した「著作物」に対して著作者が持ちうる権利」[14]のことで、その著作者の権利も「財産的権利」と「人権的権利」の二つに分けられる。詳しく話すには知識と時間があまりにも足らないので簡潔に述べさせていただく。現在でも著作権の問題は時々話題になっており、ニュースでも著作権法改正などで規制の範疇が変わっていたりしている。詳しくない私の曖昧な感覚では、「著作物を無断で使用してお金を稼いだりすることに問題がある」というように思っていたので、過去に絵師達が描いた浮世絵を用いてデザインを成した商品を販売して富を築くことに問題が無いのだろうかと考えたのだ。

   結論から述べると「浮世絵を利用しての商品開発及び販売」は全く問題にはならない。原則として著作権は「公表後もしくは死後70年間のみ機能する」[15]ので、1800年代に制作された浮世絵を用いて商品作成する行為は、既に現行の著作権を違反している事にはならないのである。浮世絵を商品デザインに使用することだけでなく、個人利用においても彼らの作品を使う事には問題ない。しかし留意点はあり、利用する画像が「自分以外が取った写真或いは自分以外の加工が入った画像であった」場合には問題が生じる。その写真や画像には浮世絵のものではなくその写真或いは画像に対して発生する著作権がある故、それを用いる事にはまたそれらの問題が起こるのだ。もうひとつ、先に話した著作権の二つの基本権利の後者「人権的権利」は、著作権が剥奪及び譲渡された後も著作者本人が保持出来るので、それらの作品を用いて作者の誹謗中傷につながるような発言をすることは本人の生死問わず禁止とされている。自分が町中で見かけた浮世絵パッケージの商品は危惧していた著作権に関しては問題なく、寧ろ「北斎や浮世絵、或いは絵画に一定の興味を持った人物の購買意欲上昇」策としては賢い戦術と言えるだろう。そして最後には「私がその術中にはまった哀れな消費者の一人だった」という事実だけが残ったのだった。

 

終わりに

   今回は北斎にまつわるその他の事象に関して知識を蓄えることができた。こう調べていくうちに北斎のものに限らず様々な浮世絵が目に付くようになっていて、感性の変化を感じている。でも知りたいのはやはり北斎でありお栄であるので、軸はずらさずに且つ浮世絵という絵画作品への関心も蔑ろにしないよううまく付き合っていきたい。北斎作品への知識、応為の足跡、知識の甘い著作権の知識の拡充などを中心にこの先も検索を続けていきたいと思う。

 

 

永田生慈【2000】『葛飾北斎吉川弘文館

永田生慈【2005】『もっと知りたい葛飾北斎東京美術

岩崎均史【1999】『木版画の技と美―浮世絵今昔―』NHKプロモーション

杉浦日奈子【1983~1987】『百日紅漫画サンデー

原恵一【2015】『百日紅Production I.G

奈須きのこ他【2015~】『Fate/GrandOrder』DERiGHTWORKS

文科省【1970】『新著作権法1886年の旧著作権法と区別 最近改定令和2年(2020)6月

著作権法 | 国内法令 | 著作権データベース | 公益社団法人著作権情報センター CRIC

著作権法確認易化の為に上記ページ使用

 

[1] 永田生慈葛飾北斎』3~7頁

[2] 永田生慈 同著8~17頁

[3] 永田生慈 同著14頁

[4] 永田生慈 同著18~29頁

[5] 永田生慈 同著28~29頁

[6] 永田生慈 同著32~80頁

[7] 永田生慈 同著82~127頁

[8] 永田生慈 同著130~166頁

[9] 永田生慈 同著165頁

[10] 永田生慈 同著168~186頁

[11] 永田生慈 同著188~221頁

[12] 岩崎均史木版画の技と美―浮世絵今昔―』6~7頁

[13] 岩崎均史 同著7~8頁

[14] 著作権 第1章第1節第1条「通則」より解釈

[15] 著作権 第2章第4節第51条「保留期間の原則」より解釈

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長文失礼しました。いやはや意外意外、注釈がちゃんと仕事してくれているではありませんか。文章自体は画像抜きで通るように作ったので、今回もテンポロスを避けるために画像は最後に全て添付させていただきました。見て欲しいのは文章の方なんで多く語ることはありません、文章を読んでみてください。

 

●本当にネタ抜きのマジモンです

 これに関しては冗談抜きでやっているので、質問とかあったらしてほしいぐらいです。おかげさまで半年で「葛飾北斎」に関して素人よりは知識を蓄えている程度にはレベルを上げられていたと思います。まだまだ不備だらけではありますが、もう1年弱ある期間のうちにもっとうまく文章を構築できればいいかなと思います。また年末ぐらいにでも更新するつもりです、よろしくお願いします。

あとこの夏に北斎関係の展覧会が二件、六本木と墨田で行われるのでそれに参加して実物をこの目で見てこようと思います。楽しみですね^^